―子どものころのお話しをお聞かせください。
漫画好きで、少女漫画からドラゴンボールまでさまざまな漫画を読んでいました。小学生のころは、自分で描いた漫画を友だちに見てもらって楽しんでいました。
中学生になると、漫画を描くことから映画を観るほうに興味が変わり、さまざまな映画を観るようになりました。
高校を卒業する頃に一般の映画サークルに所属しまして、映画の宣伝などをしていました。
-沖縄国際大学に入学したきっかけを教えてください。
これも映画がきっかけですが、高校生のころによく見ていたハリウッド映画の影響で英語が好きになりました。もっと英語を勉強したいなと思い、英文学科を受験しました。
-入学してわかった本学の魅力はありますか。
うまく言葉にできないのですが、私自身の人生のなかでも大学時代は1番フットワークが軽かった時代です。学外でも出会いや交流があり人生が広がった時期でした。あの好奇心のままに動いた、自由な時代がなければ今の自分は存在しないといっても過言ではありません。それができたのはやはり「学生の好奇心を後押しする」文化が先生方にもあり、学校側でも様々な機会を用意しています。それは大きな魅力の一つだと思います。
例えば、台湾に興味をもったとき、大学3年次に台湾の東海大学に短期語学セミナーに参加しました。言葉は違いますが、異文化ですが沖縄と近くて面白い土地と思いました。このセミナーがきっかけで台湾に興味を持ち、『百日告別』という台湾と共同プロデュースする作品を手がけました。異文化に興味を持つきっかけが制度として充実しているのも魅力だと思います。また後述のインターンシップなどの情報も大学で入手でき、直接の就職にはつながらなくとも様々な経験をしたことで今の自分があり、とてもいい経験になりました。
余談ですが、大学の敷地や建物の空間などがいいサイズだなと思います。広すぎず、狭すぎず学部以外の学生とも交流がしやすい環境だと感じます。実際、5号館ロビーを友だちとの集合場所としてよく利用していましたが、そこで何度が出会った方に話かけて友だちになったりしました(笑)。「会いたい人に会える場所」だと私は思っており、初めての短編映画も5号館を舞台にしたほどです(笑)。
-映画を制作しようと思ったきっかけを教えてください。
大学入学後に、外国人の先生の英語の授業で映画を作ろうという話を先生から持ちかけられました。色々ありまして授業で映画を作ることは流れましたが(笑)、そこで映画が好きな仲間と出会うことができました。その方たちや、友人、先生に協力してもらい、初めての短編映画を大学2年次に制作しました。その後は、3・4年次に1本ずつ制作し、大学祭で上映しました。短編映画制作でも学友や先生にも恵まれ、ときには無理をいって先生に出演していただいたりもしました。
-そのころから映画監督を目指していましたか。
確か大学3年次のころだったと思いますが、東京の広告代理店にインターンシップをしました。あの頃から映像に関わる仕事に就きたいと考えており、インターンシップ先ではさまざまな映像を見せていただきました。その経験から、映像に関わる仕事への気持ちが高まり、CM制作のアルバイトを始めました。
-そのバイトはいかがでしたか。
アマチュアの制作現場とプロの制作現場の違いや重みを知りました。私はPA(制作アシスタント)として関わりましたが、ディレクターの席はこんなにも遠いということを痛感し、一度あっさりと映像の道を諦め、別の業界に就職活動を始めました。それが4年次の春でした。
-一度諦めた映画への道ですが、どのようなきっかけで再チャレンジをしましたか。
別の業界に就職活動を始めた時期に、同じ映画を作っていた仲間から、カナダ人の監督が沖縄で撮影しカメラ助手を探していると聞き、「最後のチャンスだ」と思い面接に行きました。それが、私に多大な影響を与えてくださったカナダ出身のクロード・ガニオン監督です。カメラ助手として採用され、沖縄での撮影に同行しました。最初は沖縄の撮影のみでしたが、県外での撮影にも同行するようお誘いを受け京都・東京ロケに同行しました。
スタッフは少ない中で、監督自身がカメラを回し、その助手だったため現場の中心で映画作りを体験できました。少人数スタッフでも内藤剛さん・桃井かおりさんや奥田瑛二さんなどの一流の役者さんたちが一丸となって映画をつくりあげていくのを目の当たりにして、「進みたいのはこの世界だ」と直感しました。
ただ、4年次だったので卒論との両立が大変でした。沖縄と県外の往来が多く、卒論を完成出来そうになかったら退学も視野にいれていました。指導教官だった新里勝彦先生に厳しくも諭していただいてどうにか卒論を仕上げ、卒業することができました。感謝しかありません。
また、毎年のように映画の感想を真剣に話してくださった追立祐嗣先生には、在学中の最後の作品「CALL」をみていただいたとき「やっと空気感を描けるようになりましたね」という言葉を頂いたとき、先生は本当に様々な英文学や映画にも詳しくあられたので、映画監督を目指すタイミングでもあり、とても勇気づけられました。
-卒業後のお話しをおきかせください。
1年間は沖縄でフリーランスとして現場経験を積み、2003年にガニオン監督の『KAMATAKI -窯焚-』(2004年制作)の助監督として呼ばれカナダ・モントリオールと映画の舞台である滋賀県信楽を行き来しながら現場経験を積みました。2008年に『アンを探して』で長編映画の監督・共同脚本を手掛けて、「第5回アジアン・フェスティバル・オブ・ファースト・フィルムズ」にて、邦人初の最優秀監督賞と最優秀作品賞を受賞させていただきました。
カナダとの共同製作を通じて、国籍や人種を超えてさまざまな人と関わりを持つことができ「人間」について深く考えさせられました。その経験の原点は沖縄国際大学で学んだことにあると思っています。
そして、海外に出てはじめて生まれ育った沖縄の魅力、人の魅力に気づいたこともあり、2011年に沖縄に戻り映画会社ククルビジョンを立ち上げました。
-現在の目標をお聞かせください。
沖縄にはまだ語られていないことがいっぱいあると思います。また、語られている文化ではありますが、それらをどのように次世代につなぐか、という課題もあると思います。
語られていない沖縄のことも含め、映像を通じて沖縄の人と魅力を世界に発信し続けようと思っています。
-最後に沖国生にひと言メッセージをお願いします。
私にとって沖縄国際大学は、「未来を広げる交差点」です。
言葉どおり、私にとっては様々な学部の学生が自然と交流できる、5号館のロビーが、映画を作る友人との出会いにつながり初監督の映画を作る場所にもなりました。
「大学生活をどう生きるか」は本当に自分次第です。振り返ってみると優秀だった同期とくらべて私自身は学生としては褒められるような学生ではなかったかもしれません。
それでも沖縄国際大学での4年間は、卒業後、どう自立して社会と向き合うのか?という天命を見つけようと必死だったと思います。「これだ!」という道が見つかるまで探し求め動き回り、情報を集め小さなチャンスも逃さず失敗や挫折を繰り返していました。
大学では良い先生はもちろん、ときに反抗的にぶつかってばかりいた先生からも大きな刺激を受け、自分自身の可能性を開いた4年間でした。その全てが今の自分自身の糧になっていたと感じます。
それは沖縄国際大学の皆さんの雰囲気、一緒に学んだ仲間の影響も多分にあったと感じています。
皆さんもいろんなことに挑戦し、失敗や挫折を繰り返しながら自分自身の可能性を開いてください。