金城さんは、現在キャスターとして報道の現場で活発に活躍なさっていますが、活発さは子どものころからでしょうか?
そうですね(笑)
家族からは、女の子遊びよりも外で走り回っているようなやんちゃな子だったと聞いています。また、おもちゃのお金を使って銀行員ごっこ、ラジオDJごっこ、ウルトラマンごっこなど「ごっこ遊び」をよくしていたみたいです。
あと、好奇心旺盛で、家族に「何で?」とよく聞いていました。とにかく興味を持ったことを知りたがる性格で、今も変わっていないですね。
それから、人前に出ることに抵抗はなかったです。小学校では学芸会とかでお芝居の司会を任され楽しんでいましたし、中学校は生徒会活動の一環でエイサーをやっていました。振り返ると、幼少期から何か表現することが好きな子だったと思います。
高校でも活発に過ごされていましたか?
そうですね。那覇高校に進学しました。高校の一番の思い出は、小学校から続けていた書道が評価され、沖縄県の海外文化交流事業の一環で、中国に訪問したことです。現地の中学生と交流しましたが、年下の子たちが、将来こうする/したい、など明確な夢を語っていてとても驚かされました。この経験は、私の世界観を広げるきっかけになりました。
本学に入学するきっかけを教えてください。
中学校、高校で出会った国語の先生がきっかけです。良い先生に恵まれたと思います。
先生たちと関わり合う中で、将来は国語の先生になりたいと思い、大学選びをしていく中で、沖国の日本文化学科に惹かれ受験しました。
入学後は国語科教員になるために頑張られたんですね?
いいえ、違うんです…苦笑
入学してから、教員を目指すと決めた友人たちを見ていると、私は想い入れが違うのではないかと感じて、別の道を模索しました。
日文の学びで印象に残っていることはありますか?
日文ならやっぱり「鬼慶良間※」。
高校までと違い、舞台を学⽣主体で⼀から創り上げるという初めてだらけでした。お互いが本気で舞台を作り上げるという経験は、忘れられない思い出になりました。
また、故遠藤庄治先生(沖縄国際大学日本文化学科教授)が担当していた口承文芸学。2年次で受講しましたが、授業を通じて昔の沖縄の人の暮らしや行事、歴史と向き合うことも高校までにはない内容で今でも覚えています。そこから私が住んでいる沖縄に目を向けるようになりました。
先ほどもお話ししましたが、教職から別の道を模索していたので、1年次のころは自分自身が将来どうしたいか揺れていましたが、2年次ぐらいから、「人に何か伝える仕事につきたい」と考えるようになりました。
その思いが強くなり始めたときに、インターンシップ制度を知り応募しました。
※鬼慶良間:渡嘉敷島を舞台とした創作民話劇で、故遠藤庄治先生が脚本を手掛け、毎年「沖国大祭」で上演される。日本文化学科の「プロジェクト演習」という授業に登録されている学生で舞台上映にかかるすべてを準備している。
インターンシップ先はどちらの会社を選びましたか?
沖縄テレビ放送(以下、OTV)です。
そこで、私の人生を左右する二つの経験を積むことができました。
一つは、スタッフさんに「この仕事をどう思っているか?」と、聞いて歩いたことです。すごく忙しそうで、オンエアー前までバタバタしていましたが、皆さん活き活きしている。こんなに忙しいのに何でだろう?、と知りたくなりました。そこで、お話を聞きにいったところ、皆さん口をそろえて「楽しい」と答える。努力や苦労など全てをひっくるめて「楽しい」と充実感溢れる表情で答えるその姿は、当時の私にとって、とても眩しかったです。
あと一つは、実習中に取材して書き上げた原稿を実際に夕方のニュースで放送してもらえる機会を与えていただいたことです。その時にとても衝撃だったのが、私が書いた原稿に「(金城さんが)現場で何を見て、何を感じて、何を伝えたいかがわからない」と、当時の担当者が実習生の私に本気で叱ってくれたことでした。担当者は、視聴者にとって、書き上げた原稿は学生とか関係なくOTVのニュースとなるので、その重みを教えてくれたことでした。このことは、今でも大事にしています。また、学生相手に本気で叱ってくれた方々と出会えたことも貴重な経験でした。
インターンシップを通じて学んだことは、一つのニュースを伝えるために多くの人たちが関わっていること。記者が徹底的に取材をして書き上げた原稿をキャスターが映像とともに伝える。視聴者に「物事を伝える」ということの重みを知ることができました。
そして、私の中で「人に何かを伝える仕事=報道」と、ピントを絞ることができました。
今の仕事に進むきっかけがインターンシップだったのですね?
そうです。
では、就活は報道関係に絞ったのですね。
それが色々な放送局などがありますが、OTV一本にしました。でも、その時はご縁がなく…苦笑
私が就活していた時は就職氷河期と言われていた時期でした。将来どうしようか悩んでいた時に、「沖縄美ら海水族館」の広報に募集が出ているのを見つけまして、飛び込むことにしました。
沖縄美ら海水族館の広報はどのような業務内容でしたか?また、その時の思い出を聞かせてください。
私が就職したころの沖縄美ら海水族館は開館して3年ぐらいで、さまざまなメディアから取材を受けました。
実を言いますと、私は美ら海水族館に行ったことがなく…(笑)。なので、初めて水族館を見たときの感動が忘れられなくて、広報の仕事に就いてもその気持ちを大切に取材するメディアを通して情報を必要とする人たちに届けようと心がけるようにしました。
また、水族館のさまざまな事に「何でだろう?」と好奇心が沸いてきて現場に通い、ミニ取材をしていました(笑)
広報担当として、ミニ取材を通じて知ることができた水族館の魅力をどう伝えていくか?ということにも工夫を凝らしていました。
ただ、広報の仕事をやればやるほど大学時代に抱いた想いが強くなりました。
それは、「人に何かを伝える仕事をしたい=報道」ですか?
そうです。メディアの方に取材を受ければ受けるほど、取材する側に立ちたいと思うようになりました。
その思いが強くなっていた2007年頃、偶然に見かけたのがRBCiラジオのラジオカーレポーター募集でした。報道への道に進むためには、メディアの業界に飛び込むしかないと決心し転職しました。
ラジオカー時代は、お店に訪問してのレポートを始め、さまざまな方に突撃取材をしていました。その後、2011年7月に今の報道部に配属されることになりました。
初めてニュースにした内容は覚えていますか?
もちろん覚えています!
牧志駅前ほしぞら公民館の取材でした。私が取材して、原稿を書き上げて、オッケーがもらえて、ニュースとして視聴者に届けられました。ニュースが読み上げられているときに、インターンシップの時に思い描いた仕事(報道)の一歩を踏み出せた、と実感しました。
この仕事のやりがいと今後の展望をお聞かせください。
(情報を調べ、伝えることは)楽しい!です(笑)
子どものころから、さまざまな事に興味を持ち知ることが楽しかったですし、人に何か伝えるということも好きでした。
その楽しいこと、好きなことを仕事にすることが出来ました。今は、さまざまな方が関わって成立しているこの仕事を通じて、「沖縄の今を学びながら、学んだことを伝え残す。記録し続ける。」ということを心がけています。
今後の展望は、この仕事を通して「恩送り」をしていきたいのです。
それは、この島で出会った人たちから受けたこと、背中を押していただいたことで今の私がいる。取材でも、マイクを向けることによって届けられるメッセージがあるから、私たちはそこから気づきがあり、伝えられるものがある。この仕事の醍醐味です。
最後に後輩(沖国大生)にひと言
迷うことは(自分の中の)何か変化したい、何かを進めたい、と感じていることだと思うので、さまざまなことを経験し、そして迷いながら進んでください。迷い続けながら進んだ先には必ず答えがあるはずです。
そして、当たり前に興味を持って欲しいと思います。情報が溢れてすぐに何でも調べられる便利な今だからこそ、さまざまな当たり前なことに興味を持ち、⾃分の⽬で⾒て、調べ、掘り下げて欲しいです。
最後になりますが、⾔葉を⼤事にしてください。⾔葉は皆さんの中で活き、⽣きています。