50年のあゆみ

沖縄国際大学のあゆみを
創立前から現在まで写真を交えながら振り返ります。

50th HISTORY
50th HISTORY

創立前史

復帰前後の沖縄の
私立大学と本学開学まで

  何事によらず新しい物を造り出すには種々の障害を克服して進まねばならないのであります。本学は、やっと誕生したばかりであります。これからその基礎を固め、将来内外に恥じない充実した学問の府とするには、今後とも幾多の苦難の途をたどらねばならないことは言を待たないことであります。

  1972年の第一回入学式における初代学長・安里源秀氏の式辞の抜粋である。式辞は本学の設立の経緯から始まり、途中で上記の語りが出てくる。
  ここで注目したいのは「やっと」、という言葉である。「やっと」とは「どうにかこうにか」「かろうじて」などの意味がある。もう一度式辞を読み直すと、「苦労」を表現する言葉と、開学まで尽力された方々への「謝意」が随所にみられる。

  安里学長はなぜ「やっと」という言葉を使わざるを得なかったのか。この言葉には、四半世紀にわたるアメリカ統治から施政権が日本に返還される一大転換期に、大学もまた変わっていかざるをえない困難な課題を乗り越えたことの心情が吐露されているように思える。本章では開学までの道のりをまとめることにする。

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復帰前の沖縄の私立大学

沖縄大学と国際大学

  沖縄に大学が設立されたのは、戦後のことである。1950(昭和25)年に米国琉球軍政府によって琉球大学が設置された。琉球大学の開学により、沖縄における高等教育に対する社会的ニーズの高まりをみせる。
  その高まりの中、社会のニーズに応えるべく琉球政府の認可の下、最初に設立された私立大学が沖縄短期大学(1958年、のちの沖縄大学)で、その後沖縄キリスト教短期大学(1959年)、国際大学(1961年)、沖縄女子短期大学(1966年)が設立されていった。
  復帰前の沖縄のそれぞれの私立大学は、校地・施設面の狭さ、教員の研究室、学生数に対する教員数の適切な割合など解決すべき問題を抱えていたが、独自の発展を遂げていった。
  しかし、1969(昭和44)年11月21日の佐藤・ニクソン会談にもとづく「日米共同声明」が発表され、沖縄の日本復帰が決定されると私立大学を取り巻く状況も一変する。

沖縄大学と国際大学

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統合の過程

沖縄国際大学設置許可申請書一式(本学保管用) -1972年2月19日-

  「日米共同声明」をうけて、1970(昭和45)年2月に文部省職員が来沖し、復帰後に適応される「大学設置基準」を満たしているかの実情実態調査をおこなった。文部省からは「大学設置基準に、はるかに及ばず、復帰の時点で大学として認可できないので、沖縄大学と国際大学の統合を必要とする」という通達がなされた。
  それをうけ、沖縄大学と国際大学では、それぞれ復帰後に適応される大学設置基準を意識した対応策の模索が始まった。国際大学からは統合も一つの選択肢として考えていたが、沖縄大学は独自存続案を策定し、統合への話し合いは開始されることはなかった。
  そのような中、日本政府の沖縄政策を提言、推進する役割を担っていた沖縄問題懇談会座長・南方同胞援護会会長の大浜信泉氏は、

1970(昭和45)年9月に、「沖縄における私立大学の復帰対策構想(大浜私案)」を公表した。
大浜私案は「大学設置基準」に限りなく近づくために沖縄大学と国際大学の統合を促し、新大学設立のための資金調達を復帰措置として国庫に求める、という内容であった。
  これをうけて両大学代表を交えた統合委員会(のちに設立委員会)が結成され、安里源秀氏が理事長・学長として選任された。安里学長を中心にさまざまな諸案件に対し討議と解決を図り、1972(昭和47)年2月25日に琉球政府より「学校法人 沖縄国際大学」の設置認可書が交付された。
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大学開学に向けて

「本学発祥の地」宜野湾原頭(1972(昭和47)年当時)

  大学開学に向けて準備をしていく過程で、大きな問題が生じた。
  当初、沖縄大学と国際大学の校地・諸施設を使って運営されることになっていた。しかし、沖縄大学側の一部教員が大学存続を表明、他方、国際大学も理事長が代わり沖縄国際大学に非協力の方針を決定したため、国際大学を使用できなくなった。これが、1972(昭和47)年1月から3月ごろの経緯である。

「本学発祥の地」宜野湾原頭(1972(昭和47)年当時)

1973年の本学全景

  この問題解決に向けて設立委員会は早急に校地選定と校舎建設の準備を迫られた。幸いにして宜野湾市議会が1971年(昭和46)年9月17日に大学誘致要請を決議し、宜野湾市宜野湾区と設立委員会との交渉をすすめていたので、開学の準備に着手することができた。1972年(昭和47)年2月に計画が完成し、3月に入札、工事を着工した。大学校舎が完成するまでは、プレハブでの授業を強いられた。

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宜野湾区の協力

墓地移転式(1973(昭和48)年1月)奥は、
建設中の旧3号館と旧5号館

  3でも述べたように、開学前の危機的な状況が発生したが、宜野湾区民の大きな協力があり開学できた。
  大学を設立するためには広大な土地、地理的、地形的に大学建設に適した場所を選定しなければならない。複数の候補地の中から、大学誘致要請の決議や宜野湾区の協力的な姿勢もあったので、現在の場所を選定した。
  この土地は原野と宜野湾区民の所有する墓地だった。先にも触れたとおり、沖縄大学が存続、国際大学の施設が使用できない事態になり、早急に用地確保、墓の移転、整地作業をする必要があった。100人余の地主からの土地購入と、約100墓の移転を早急に進めるために、宜野湾区代表と本学側で交渉を進め、4か月足らずで用地確保と墓の移転を行った。ここではその経緯を大幅に割愛しているが、宜野湾区の協力なくして、本学が5月に授業を開始することが出来なかったといっても過言ではない。
  用地確保と墓の移転の目途が立ち、3月に校舎建設が着工し、プレハブ仮校舎にて、5月1日に沖縄国際大学の授業が開始されたのである。

墓地移転式(1973(昭和48)年1月)奥は、建設中の旧3号館と旧5号館

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結び

  1972年の日本復帰という沖縄の将来を左右する戦後最大の問題をめぐって議論が渦巻くなかで、沖縄における私立大学統合・存続問題は引き起こされていった。この「世変わり」の只中で翻弄されながらも、沖縄における大学教育の転換と発展を理念にして沖縄国際大学は誕生したのである。その誕生までの道のりは苦難の連続だったが、しかし、多くの方々の智慧と協力があり開学までたどり着けた。その万感の思いが、本章冒頭で引用した安里初代学長の「やっと」という言葉を生んだということができる。
  ここまでたどり着けた開学への意志と努力は、どこから湧いてきたのだろうか。またそのエネルギーをどのように開学の理念につないできたのだろうか。

当時の社会状況/情況を考えると、開学までの道のりは並大抵のものではなかったはずである。  もう一度安里源秀初代学長式辞を読み直してみよう。そこには沖縄という土地の特性を教育と研究に創造的に活かしていく「学問の府」としての確固たる理念が謳われている。それを紹介して創立前史の結びとしたい。

  本学が沖縄にあるが故に、本学の研究者に大きく期待されることがあります。即ち沖縄の自然、歴史、社会、文化、言語、民俗等について学問的解明を要すべきことが多々残されていることを考える時、本学の研究者達のこの面に於ける研究成果は、学生の教育及び社会に与える影響は大きいと考えられます。

  (中略)

  本学の使命を要約すれば、自由な学問の府として強固な基盤を築くこと、研究と教育を通じて人類の福祉に貢献し、地域社会の発展に奉仕すること、研究と教育の面で沖縄の恵まれた諸条件を十分に生かして行くこと、古人が誇ったように沖縄を『万国の津梁』即ち南北交流の拠点たらしめることにあると考え、開学に当たって、本学の抱負を宣言するものであります。
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