卒業生インタビュー - 沖縄国際大学創立50周年記念特設サイト- Okinawa International University 50th anniversary - https://50th.okiu.ac.jp Sat, 28 May 2022 04:05:45 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.8.3 友利 博明 https://50th.okiu.ac.jp/interview/tomori_hiroaki/ Thu, 26 May 2022 06:45:52 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1833 開学間近の沖縄国際大学に進学を決めた理由をお聞かせください 私は、高校卒業後にすぐに就職をしました。既に結婚して子供もおりましたが、どうしても「大学で学びたい」という気持ちを抱き続けておりました。また、高校の先生から4 […]

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開学間近の沖縄国際大学に進学を決めた理由をお聞かせください

私は、高校卒業後にすぐに就職をしました。既に結婚して子供もおりましたが、どうしても「大学で学びたい」という気持ちを抱き続けておりました。また、高校の先生から4 年制の大学は卒業しておきなさい、というメッセージもずっと私の中で残っていました。
そのようなときに沖縄国際大学が開学する、夜間部もあるということで「働きながら勉強できる」と思い進学の意思を固めました。学科はもともと法律に興味がありましたので、法学部第二部法学科に進学を決めました。

 

開学間もない沖国大はいかがでしたか?

私の中でプレハブ仮設校舎の印象が鮮明にあります。正直、入学後に使用した3 号館や5号館などの印象はあまりありません。
プレハブ仮設校舎でトタン屋根でしたので、雨が降ると先生の話は全く聞こえなくなる。また、駐車場から道路までは整地されてなく土だけの状態でした。雨が降ると車がスリップしました。大変不自由をしました。校舎と校舎との間に排水溝があり、板を設置して渡していましたが、傾斜がついていたために滑りそうになったことがありました。

また、照明の乏しい荒れたグラウンドで体育の授業としてバレーボールをしたことが思い出されます。創立当時の環境は、学生だけでなく、研究室もないないなかで先生方も大変ご苦労されたと思います。

 

学生生活はいかがでしたか?

夜間部ですので、働きながら通っている学友が多く、教室は学ぶ意欲にあふれた雰囲気でした。また、専門性と高い知識を持った先生方との出会いも私の刺激となりました。一番大きかったのが、憲法と行政法を担当された大林文敏先生※との出会いです。日本復帰をした年に我が国の法体系の根幹にある憲法を学べたことは、とても感動を覚えました。また、授業も私たちの理解度に配慮した進め方と、全体像をわかりやすく説明してくれました。私はそのまま大林先生のゼミで憲法を学びました。

 

※大林文敏

1945年生まれ。専門は、憲法学、アメリカ最高裁判所論。 1972年の本学開学と同時に講師として採用される。その後、愛知大学法学部、同大学院法学研究科・法務研究科(法科大学院)教授、司法試験委員を歴任。

 

※上記写真は、学生時代に使用していた『日本憲法概論』(酒井 吉栄 著)です。50年前に使用した参考書ですが、大事に保管しているそうです。

 

本学卒業後について教えてください。

卒業後は、仕事に専念しておりましたが、ある時、私に「複眼的な視点を持つ」必要性を説かれ、県外の大学院への進学を勧めてくださいました。もう一度先生のご指導を仰ぎ、その後愛知大学大学院に進学しました。大学院では租税法の研究をしたこともあって、税理士の道に進むことになったわけです。

 

現在の沖縄国際大学を見てどう思いますか?

この50年で、数多くの人材が沖国大を巣立ち、さまざまな分野で活躍していています。同窓生として嬉しく思います。

学習環境は、私たちのころと比べ物にならないぐらい充実しました。図書館、体育館やグラウンドなど施設を大いに活用してください。また、国内外の提携大学への留学も含めて、後輩の皆さんには充実した大学生活を過ごして欲しいと思います。

 

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喜友名 諒 https://50th.okiu.ac.jp/interview/kyuna_ryo/ Sun, 01 May 2022 03:00:11 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1614 空手を始めたきっかけと、師匠の佐久本先生との出会いについて教えてください。 空手は5歳のころに友達の影響で始めました。それから道場と学校の部活動で空手を続けていたのですが、中学校での最後の大会を終えて、少し燃え尽きてしま […]

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空手を始めたきっかけと、師匠の佐久本先生との出会いについて教えてください。

空手は5歳のころに友達の影響で始めました。それから道場と学校の部活動で空手を続けていたのですが、中学校での最後の大会を終えて、少し燃え尽きてしまったような感覚に陥っていました。そんなとき、両親も私を奮起させようと思ったのか、佐久本先生の道場の見学を勧められました。道場を見学させて頂いて、とにかく凄みに圧倒されたのを覚えています。自分の気持ちがまた熱くなるのを感じ、先生の背中を追いかけて世界を目指してみたいと思いました。佐久本先生は選手としても世界の頂点に立ち、現役を退かれた後も、世界トップの選手をずっと輩出し続けています。空手以外の人間性などにおいてもとても尊敬する部分が多く、選手としても指導者としても目標とする先生です。

 

進学先として沖縄国際大学を選んだ理由を教えてください。

高校卒業後の進路を考えるにあたり、佐久本先生の元で空手を続けたいという考えがあり、県外への進学は選択肢にありませんでした。高校の先生や先輩方にも相談をして、沖国大の教職課程がとても素晴らしいという評判を聞きました。私は将来、空手の指導者にもなりたいと考えていましたので、教職課程で学ぶことは自分の一つの武器になると思いました。また、英語が好きな科目であったこともあり、本学の英米言語文化学科に進学を決意しました。

 

大学生活の4年間で達成したい目標などはありましたか?

学業と空手をしっかり両立したいというのが、入学前の目標でしたが、そう簡単なものではなく、教職課程については途中で断念せざるを得ませんでした。しかし、絶対に空手で日本一になるという最も大きな目標は、大学4年次のとき達成することができました。学業面においても、卒業論文では空手を取り上げ、自分のアイデンティティと学業成果を結びつけることができたと思っています。空手の歴史を探って、知り合いの海外選手などにもインタビューを行い、沖縄発祥である空手文化の世界への広がりについて調べました。卒業式では、空手での功績を評価して頂き「学長賞」を頂きました。大変光栄なことだったと思っています。

 

卒業後の空手家としての活動を教えてください。

卒業してからはより一層、空手の稽古に精進しました。2014年には初めて世界選手権で優勝することもできました。2016年には東京オリンピックの正式種目に空手(個人形)が決定し、東京五輪に代表選手として出場し金メダルを獲得するということを自分の目標に見据えました。

 

東京オリンピック2020への準備や、金メダルを獲得した時のお気持ちなどをお聞かせください。

東京オリンピックが新型コロナウイルス感染拡大により1年延期となりました。2020年は試合も開催されることがほぼなかったので、基礎に立ち戻ることができました。その期間も指導してくださっている佐久本先生や、共に切磋琢磨する仲間が一緒にいたのでモチベーションを保ちながら過ごすことができました。

五輪出場にあたり、多くの方から応援の言葉をいただきました。私の空手をみて元気がでたと聞くのはとても嬉しいですし、力にもなりました。

舞台のうえでは、普段通りを心がけました。普段通りの感覚で臨んだので、無観客の大会でしたが支えてくれた佐久本先生や仲間、たくさんの応援の言葉をかけてくださった方々が傍にいるような気持ちになり、落ち着いて試合に臨みました。また、舞台では、支えてくださっている方々へ感謝の気持ちを持ち、演武を通じて「ありがとう」という気持ちを伝えられるよう努めました。

この金メダルは私一人のものではない、と思っています。支えてくださった家族、先生、仲間たちと一緒に勝ち取ったという気持ちです。

 

喜友名さんにとって空手の魅力とはどのようなところでしょうか?

私がやっている空手は形競技ですので、なかなか数値として表すことは難しいのですが、「誰よりも強い突きと蹴り」を目指しています。空手の魅力は、まず沖縄の文化であるということです。それを、何の道具も必要とせず世界中どこへ行っても、自分の体と心ひとつで表現することができます。そこは大きな魅力だと感じています。
現在、指導者として空手を次世代につなぐことをしております。心がけているのは楽しく空手を指導することと、劉衛流の精神と技を伝えることです。将来、世界チャンピオンを目指せるような選手も出てきたらいいなと思っております。
空手家として生活ができている人間はそう多くはありません。幸い私はそれができていますが、そのような面でも次の世代が続いていけるような環境作りもしていければと思っています。

 

最後に受験生や在学生へメッセージを!

大学生になるといろんな部分で「責任」というものがついてきます。その分、自分で決断できることも増えてくると思います。学業面についてももちろんですが、それ以外の部分でも、しっかりと自分のやりたいことを見つけて、そこに懸命に取り組んで欲しいと思います。

あと、私が在学時よりも(新3号館や学生会館があり)施設が充実していると思いました。当時よりも教育内容も充実していると思うので、今からでも大学に入り直して勉強したいと思うほどです。皆さんには多くの時間があると思います。その大切な時間を無駄にせず、自分の成長に繋げられるような大学生活を送ってください。

 

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宮平 貴子 https://50th.okiu.ac.jp/interview/miyahira_takako/ Fri, 08 Apr 2022 02:56:35 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1803 ―子どものころのお話しをお聞かせください。 漫画好きで、少女漫画からドラゴンボールまでさまざまな漫画を読んでいました。小学生のころは、自分で描いた漫画を友だちに見てもらって楽しんでいました。 中学生になると、漫画を描くこ […]

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―子どものころのお話しをお聞かせください。

漫画好きで、少女漫画からドラゴンボールまでさまざまな漫画を読んでいました。小学生のころは、自分で描いた漫画を友だちに見てもらって楽しんでいました。
中学生になると、漫画を描くことから映画を観るほうに興味が変わり、さまざまな映画を観るようになりました。
高校を卒業する頃に一般の映画サークルに所属しまして、映画の宣伝などをしていました。

 

-沖縄国際大学に入学したきっかけを教えてください。

これも映画がきっかけですが、高校生のころによく見ていたハリウッド映画の影響で英語が好きになりました。もっと英語を勉強したいなと思い、英文学科を受験しました。

 

-入学してわかった本学の魅力はありますか。

うまく言葉にできないのですが、私自身の人生のなかでも大学時代は1番フットワークが軽かった時代です。学外でも出会いや交流があり人生が広がった時期でした。あの好奇心のままに動いた、自由な時代がなければ今の自分は存在しないといっても過言ではありません。それができたのはやはり「学生の好奇心を後押しする」文化が先生方にもあり、学校側でも様々な機会を用意しています。それは大きな魅力の一つだと思います。

例えば、台湾に興味をもったとき、大学3年次に台湾の東海大学に短期語学セミナーに参加しました。言葉は違いますが、異文化ですが沖縄と近くて面白い土地と思いました。このセミナーがきっかけで台湾に興味を持ち、『百日告別』という台湾と共同プロデュースする作品を手がけました。異文化に興味を持つきっかけが制度として充実しているのも魅力だと思います。また後述のインターンシップなどの情報も大学で入手でき、直接の就職にはつながらなくとも様々な経験をしたことで今の自分があり、とてもいい経験になりました。

余談ですが、大学の敷地や建物の空間などがいいサイズだなと思います。広すぎず、狭すぎず学部以外の学生とも交流がしやすい環境だと感じます。実際、5号館ロビーを友だちとの集合場所としてよく利用していましたが、そこで何度が出会った方に話かけて友だちになったりしました(笑)。「会いたい人に会える場所」だと私は思っており、初めての短編映画も5号館を舞台にしたほどです(笑)。

 

-映画を制作しようと思ったきっかけを教えてください。

大学入学後に、外国人の先生の英語の授業で映画を作ろうという話を先生から持ちかけられました。色々ありまして授業で映画を作ることは流れましたが(笑)、そこで映画が好きな仲間と出会うことができました。その方たちや、友人、先生に協力してもらい、初めての短編映画を大学2年次に制作しました。その後は、3・4年次に1本ずつ制作し、大学祭で上映しました。短編映画制作でも学友や先生にも恵まれ、ときには無理をいって先生に出演していただいたりもしました。

 

-そのころから映画監督を目指していましたか。

確か大学3年次のころだったと思いますが、東京の広告代理店にインターンシップをしました。あの頃から映像に関わる仕事に就きたいと考えており、インターンシップ先ではさまざまな映像を見せていただきました。その経験から、映像に関わる仕事への気持ちが高まり、CM制作のアルバイトを始めました。

 

-そのバイトはいかがでしたか。

アマチュアの制作現場とプロの制作現場の違いや重みを知りました。私はPA(制作アシスタント)として関わりましたが、ディレクターの席はこんなにも遠いということを痛感し、一度あっさりと映像の道を諦め、別の業界に就職活動を始めました。それが4年次の春でした。

 

-一度諦めた映画への道ですが、どのようなきっかけで再チャレンジをしましたか。

別の業界に就職活動を始めた時期に、同じ映画を作っていた仲間から、カナダ人の監督が沖縄で撮影しカメラ助手を探していると聞き、「最後のチャンスだ」と思い面接に行きました。それが、私に多大な影響を与えてくださったカナダ出身のクロード・ガニオン監督です。カメラ助手として採用され、沖縄での撮影に同行しました。最初は沖縄の撮影のみでしたが、県外での撮影にも同行するようお誘いを受け京都・東京ロケに同行しました。

スタッフは少ない中で、監督自身がカメラを回し、その助手だったため現場の中心で映画作りを体験できました。少人数スタッフでも内藤剛さん・桃井かおりさんや奥田瑛二さんなどの一流の役者さんたちが一丸となって映画をつくりあげていくのを目の当たりにして、「進みたいのはこの世界だ」と直感しました。

ただ、4年次だったので卒論との両立が大変でした。沖縄と県外の往来が多く、卒論を完成出来そうになかったら退学も視野にいれていました。指導教官だった新里勝彦先生に厳しくも諭していただいてどうにか卒論を仕上げ、卒業することができました。感謝しかありません。

また、毎年のように映画の感想を真剣に話してくださった追立祐嗣先生には、在学中の最後の作品「CALL」をみていただいたとき「やっと空気感を描けるようになりましたね」という言葉を頂いたとき、先生は本当に様々な英文学や映画にも詳しくあられたので、映画監督を目指すタイミングでもあり、とても勇気づけられました。

 

-卒業後のお話しをおきかせください。

1年間は沖縄でフリーランスとして現場経験を積み、2003年にガニオン監督の『KAMATAKI -窯焚-』(2004年制作)の助監督として呼ばれカナダ・モントリオールと映画の舞台である滋賀県信楽を行き来しながら現場経験を積みました。2008年に『アンを探して』で長編映画の監督・共同脚本を手掛けて、「第5回アジアン・フェスティバル・オブ・ファースト・フィルムズ」にて、邦人初の最優秀監督賞と最優秀作品賞を受賞させていただきました。

カナダとの共同製作を通じて、国籍や人種を超えてさまざまな人と関わりを持つことができ「人間」について深く考えさせられました。その経験の原点は沖縄国際大学で学んだことにあると思っています。

そして、海外に出てはじめて生まれ育った沖縄の魅力、人の魅力に気づいたこともあり、2011年に沖縄に戻り映画会社ククルビジョンを立ち上げました。

 

-現在の目標をお聞かせください。

沖縄にはまだ語られていないことがいっぱいあると思います。また、語られている文化ではありますが、それらをどのように次世代につなぐか、という課題もあると思います。
語られていない沖縄のことも含め、映像を通じて沖縄の人と魅力を世界に発信し続けようと思っています。

 

-最後に沖国生にひと言メッセージをお願いします。

私にとって沖縄国際大学は、「未来を広げる交差点」です。
言葉どおり、私にとっては様々な学部の学生が自然と交流できる、5号館のロビーが、映画を作る友人との出会いにつながり初監督の映画を作る場所にもなりました。
「大学生活をどう生きるか」は本当に自分次第です。振り返ってみると優秀だった同期とくらべて私自身は学生としては褒められるような学生ではなかったかもしれません。
それでも沖縄国際大学での4年間は、卒業後、どう自立して社会と向き合うのか?という天命を見つけようと必死だったと思います。「これだ!」という道が見つかるまで探し求め動き回り、情報を集め小さなチャンスも逃さず失敗や挫折を繰り返していました。
大学では良い先生はもちろん、ときに反抗的にぶつかってばかりいた先生からも大きな刺激を受け、自分自身の可能性を開いた4年間でした。その全てが今の自分自身の糧になっていたと感じます。
それは沖縄国際大学の皆さんの雰囲気、一緒に学んだ仲間の影響も多分にあったと感じています。
皆さんもいろんなことに挑戦し、失敗や挫折を繰り返しながら自分自身の可能性を開いてください。

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金城 有佳 https://50th.okiu.ac.jp/interview/kinjo_yuka/ Fri, 04 Feb 2022 01:35:04 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1608 金城さんは、現在キャスターとして報道の現場で活発に活躍なさっていますが、活発さは子どものころからでしょうか? そうですね(笑) 家族からは、女の子遊びよりも外で走り回っているようなやんちゃな子だったと聞いています。また、 […]

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金城さんは、現在キャスターとして報道の現場で活発に活躍なさっていますが、活発さは子どものころからでしょうか?

そうですね(笑)

家族からは、女の子遊びよりも外で走り回っているようなやんちゃな子だったと聞いています。また、おもちゃのお金を使って銀行員ごっこ、ラジオDJごっこ、ウルトラマンごっこなど「ごっこ遊び」をよくしていたみたいです。

あと、好奇心旺盛で、家族に「何で?」とよく聞いていました。とにかく興味を持ったことを知りたがる性格で、今も変わっていないですね。

それから、人前に出ることに抵抗はなかったです。小学校では学芸会とかでお芝居の司会を任され楽しんでいましたし、中学校は生徒会活動の一環でエイサーをやっていました。振り返ると、幼少期から何か表現することが好きな子だったと思います。

 

高校でも活発に過ごされていましたか?

そうですね。那覇高校に進学しました。高校の一番の思い出は、小学校から続けていた書道が評価され、沖縄県の海外文化交流事業の一環で、中国に訪問したことです。現地の中学生と交流しましたが、年下の子たちが、将来こうする/したい、など明確な夢を語っていてとても驚かされました。この経験は、私の世界観を広げるきっかけになりました。

 

本学に入学するきっかけを教えてください。

中学校、高校で出会った国語の先生がきっかけです。良い先生に恵まれたと思います。

先生たちと関わり合う中で、将来は国語の先生になりたいと思い、大学選びをしていく中で、沖国の日本文化学科に惹かれ受験しました。

 

入学後は国語科教員になるために頑張られたんですね?

いいえ、違うんです…苦笑

入学してから、教員を目指すと決めた友人たちを見ていると、私は想い入れが違うのではないかと感じて、別の道を模索しました。

 

日文の学びで印象に残っていることはありますか?

日文ならやっぱり「鬼慶良間※」。

高校までと違い、舞台を学⽣主体で⼀から創り上げるという初めてだらけでした。お互いが本気で舞台を作り上げるという経験は、忘れられない思い出になりました。

また、故遠藤庄治先生(沖縄国際大学日本文化学科教授)が担当していた口承文芸学。2年次で受講しましたが、授業を通じて昔の沖縄の人の暮らしや行事、歴史と向き合うことも高校までにはない内容で今でも覚えています。そこから私が住んでいる沖縄に目を向けるようになりました。

先ほどもお話ししましたが、教職から別の道を模索していたので、1年次のころは自分自身が将来どうしたいか揺れていましたが、2年次ぐらいから、「人に何か伝える仕事につきたい」と考えるようになりました。

その思いが強くなり始めたときに、インターンシップ制度を知り応募しました。

※鬼慶良間:渡嘉敷島を舞台とした創作民話劇で、故遠藤庄治先生が脚本を手掛け、毎年「沖国大祭」で上演される。日本文化学科の「プロジェクト演習」という授業に登録されている学生で舞台上映にかかるすべてを準備している。

 

 

インターンシップ先はどちらの会社を選びましたか?

沖縄テレビ放送(以下、OTV)です。

そこで、私の人生を左右する二つの経験を積むことができました。

一つは、スタッフさんに「この仕事をどう思っているか?」と、聞いて歩いたことです。すごく忙しそうで、オンエアー前までバタバタしていましたが、皆さん活き活きしている。こんなに忙しいのに何でだろう?、と知りたくなりました。そこで、お話を聞きにいったところ、皆さん口をそろえて「楽しい」と答える。努力や苦労など全てをひっくるめて「楽しい」と充実感溢れる表情で答えるその姿は、当時の私にとって、とても眩しかったです。

あと一つは、実習中に取材して書き上げた原稿を実際に夕方のニュースで放送してもらえる機会を与えていただいたことです。その時にとても衝撃だったのが、私が書いた原稿に「(金城さんが)現場で何を見て、何を感じて、何を伝えたいかがわからない」と、当時の担当者が実習生の私に本気で叱ってくれたことでした。担当者は、視聴者にとって、書き上げた原稿は学生とか関係なくOTVのニュースとなるので、その重みを教えてくれたことでした。このことは、今でも大事にしています。また、学生相手に本気で叱ってくれた方々と出会えたことも貴重な経験でした。

インターンシップを通じて学んだことは、一つのニュースを伝えるために多くの人たちが関わっていること。記者が徹底的に取材をして書き上げた原稿をキャスターが映像とともに伝える。視聴者に「物事を伝える」ということの重みを知ることができました。

そして、私の中で「人に何かを伝える仕事=報道」と、ピントを絞ることができました。

 

今の仕事に進むきっかけがインターンシップだったのですね?

そうです。

 

では、就活は報道関係に絞ったのですね。

それが色々な放送局などがありますが、OTV一本にしました。でも、その時はご縁がなく…苦笑

私が就活していた時は就職氷河期と言われていた時期でした。将来どうしようか悩んでいた時に、「沖縄美ら海水族館」の広報に募集が出ているのを見つけまして、飛び込むことにしました。

 

沖縄美ら海水族館の広報はどのような業務内容でしたか?また、その時の思い出を聞かせてください。

私が就職したころの沖縄美ら海水族館は開館して3年ぐらいで、さまざまなメディアから取材を受けました。

実を言いますと、私は美ら海水族館に行ったことがなく…(笑)。なので、初めて水族館を見たときの感動が忘れられなくて、広報の仕事に就いてもその気持ちを大切に取材するメディアを通して情報を必要とする人たちに届けようと心がけるようにしました。

また、水族館のさまざまな事に「何でだろう?」と好奇心が沸いてきて現場に通い、ミニ取材をしていました(笑)

広報担当として、ミニ取材を通じて知ることができた水族館の魅力をどう伝えていくか?ということにも工夫を凝らしていました。

ただ、広報の仕事をやればやるほど大学時代に抱いた想いが強くなりました。

 

それは、「人に何かを伝える仕事をしたい=報道」ですか?

そうです。メディアの方に取材を受ければ受けるほど、取材する側に立ちたいと思うようになりました。

その思いが強くなっていた2007年頃、偶然に見かけたのがRBCiラジオのラジオカーレポーター募集でした。報道への道に進むためには、メディアの業界に飛び込むしかないと決心し転職しました。

ラジオカー時代は、お店に訪問してのレポートを始め、さまざまな方に突撃取材をしていました。その後、2011年7月に今の報道部に配属されることになりました。

初めてニュースにした内容は覚えていますか?

もちろん覚えています!

牧志駅前ほしぞら公民館の取材でした。私が取材して、原稿を書き上げて、オッケーがもらえて、ニュースとして視聴者に届けられました。ニュースが読み上げられているときに、インターンシップの時に思い描いた仕事(報道)の一歩を踏み出せた、と実感しました。

 

この仕事のやりがいと今後の展望をお聞かせください。

(情報を調べ、伝えることは)楽しい!です(笑)

子どものころから、さまざまな事に興味を持ち知ることが楽しかったですし、人に何か伝えるということも好きでした。

その楽しいこと、好きなことを仕事にすることが出来ました。今は、さまざまな方が関わって成立しているこの仕事を通じて、「沖縄の今を学びながら、学んだことを伝え残す。記録し続ける。」ということを心がけています。

今後の展望は、この仕事を通して「恩送り」をしていきたいのです。

それは、この島で出会った人たちから受けたこと、背中を押していただいたことで今の私がいる。取材でも、マイクを向けることによって届けられるメッセージがあるから、私たちはそこから気づきがあり、伝えられるものがある。この仕事の醍醐味です。

 

最後に後輩(沖国大生)にひと言

迷うことは(自分の中の)何か変化したい、何かを進めたい、と感じていることだと思うので、さまざまなことを経験し、そして迷いながら進んでください。迷い続けながら進んだ先には必ず答えがあるはずです。

そして、当たり前に興味を持って欲しいと思います。情報が溢れてすぐに何でも調べられる便利な今だからこそ、さまざまな当たり前なことに興味を持ち、⾃分の⽬で⾒て、調べ、掘り下げて欲しいです。

最後になりますが、⾔葉を⼤事にしてください。⾔葉は皆さんの中で活き、⽣きています。

 

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運天 寛樹 https://50th.okiu.ac.jp/interview/unten/ Wed, 12 Jan 2022 11:25:05 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1440 本学に入学したきっかけを教えてください。  高校時代は部活と勉学の両立をしておりました。県内で法学系を学べる大学にしたいな、という漠然とした気持ちから、法学部がある沖国大を選択しました。     高校 […]

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本学に入学したきっかけを教えてください。

 高校時代は部活と勉学の両立をしておりました。県内で法学系を学べる大学にしたいな、という漠然とした気持ちから、法学部がある沖国大を選択しました。

 

 

高校まで抱いていた大学のイメージは入学してから変わりましたか?

 入学当時は、大学の仕組みが全く理解できていませんでした。なので、高校と同様1校時から6校時、月曜日から金曜日まで授業があるのだろうな、というイメージですよね。

 入学後のオリエンテーションなどを通じて、学びたい授業を自分で選択して時間割を組み立てないといけないなどの仕組みがわかってきました。

 

 

入学後はどのような学生生活を過ごされていましたか?

 入学の動機が漠然としていたため、1年生のころは必修科目や選択必修科目を多く履修して、共通科目の授業はほとんど登録しなかったです。

 また、多くの友人と巡り合え、その方たちと遊びを覚えてしまい(笑)、勉強はとてもおろそかになっていましたね。

 ただ、1年生が終わるころにこのままじゃダメだなって思い、気持ちを切り替えて計画的に時間割を組み立て、単位を取得するようにしました。しかし、1年のころに遊んだツケがありましたので、夏休みの集中講義なども履修してなんとか巻き返せるよう努力しました。

 

 

2年生から計画的に勉強するようになりますが、いつごろから弁護士の道に進みたいと考えるようになりましたか?

 3年生になって、何か勉強しないといけないという気持ちになり、法律の勉強を始めました。法律を選んだのは、生活に活かせるからでした。勉強の成果を確認する意味で法律系の資格試験にチャレンジし、宅建を3年生のころ、行政書士を4年のころに取得しました。

 卒業後は、県内の専門学校に就職し、講師として宅建の対策講座などを持たせてもらいました。講義をしていく中で、学生から自身の身の回りでおきた法律問題について質問を受けることもあったのですが、その頃の私は深い法律知識を持っていなかったので、うまく回答できない自分がいました。生徒の質問に的確に、根拠を提示しながら答えてあげたい、という気持ちが動機となり、司法試験の道にチャレンジしました。

司法試験合格に向けて対策がスタートしたわけですが、その時に苦労したこと、頑張ったことなどを教えてください。

 1番きつかったのが、勉強しないといけなかったこと(笑)

 小・中・高と、勉強漬けの生活じゃなかったので、1日中勉強することに慣れることから始まりました。司法試験合格のために、愛知県にあるロースクールに進学することにしました。ロースクールも大学と同じような講義のスケジュールとなっていたので、講義の合間も勉強漬けの時間として設定しました。

 その甲斐があってか、ロースクールを修了した年に司法試験を受験し、一発で合格することができました。

 

 

コツコツと積み重ねた努力が、司法試験合格という結果にすぐに結びついたことは素晴らしいですね!その後、弁護士の道をスタートさせるわけですが、仕事に就いてわかったこと、やりがいなどを教えてください。

 周りに司法関係の仕事をしている人がいなくて、ドラマのイメージだった。争いごとを弁護士がササっと解決するみたいな(笑)

 じゃあ実際どうだったかというと、そうじゃない。思った以上に争いごとを解決するのは難しいことを実感している毎日ですが、それがやりがいです。案件を無事に解決し依頼者から感謝の言葉などをいただくと、この仕事をしていてよかったなと実感します。

 

 

現役の弁護士として本学の教壇に立っていただいていますが、学生(後輩)を見てどう思いますか?

 授業を担当させてもらって7年ぐらい経ちました。その中で感じたことを一言でまとめると「すごく真面目」です。私語が少ない、授業中に寝ている人をあまり見かけないなど。私自身と比べると、当時の私が恥ずかしくなります(笑)

 私のテスト内容は、授業を聞かないと解答できないよう作問することに心がけています。真面目なのは解答にも反映されていて、ちゃんと勉強していると感じております。

 

 

卒業して15年ほど経過しましたが、沖国大の魅力は何ですか?

 沖国大の4年間は楽しかった!

 一生付き合える仲間と巡り合うことが出来る環境が魅力の一つですよね。仲間たちとの思い出があったので、愛知県でのロースクールでの勉強漬けの毎日を乗り越えられました。

 また、先生方の学生へのフォローがいいのも魅力です。恩師の上江洲純子先生には学生時代から卒業後もさまざまなフォローをしてもらいました。今、教壇で後輩たちに貢献できるきっかけを与えてくださったのも、上江洲先生です。

 あと、先生と学生の距離感も近いですよね。それが一番表れていると感じるのが、先生方が姓とか君・さん付けでよばずに、名前で呼ぶ。友だち同士もですね。

 このようなことからも、人と人との結びつきが強いのかなって感じています。

運天さんの今後の夢を聞かせてください

 私は人に教えることが好きだったこともあり、母校で教壇に立たせていただいています。これからも法律家と法律を教える仕事の両立をし続けたいです。

 また、母校への還元も考えていて、法律系の仕事に就きたい後輩たちに、その分野の方々をつなげるようなことをしたいですね。

 

 

最後に後輩たちへひと言

 大学4年間は一度きりです。高い学費を払って通学するので、もとを取り返すぐらい、勉強もバイトも遊び(笑)も頑張って欲しい。

 大学は社会の縮図と言われています。大学で培った人間関係は社会に出てから必ず役に立ちます。社会に出て後悔しないために、4年間でやれること、経験できることを考えて頑張ってください!

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比嘉 正茂 https://50th.okiu.ac.jp/interview/higa/ Wed, 12 Jan 2022 11:24:27 +0000 https://50th.okiu.ac.jp/?post_type=interview&p=1439 本学に進学した理由をお聞かせください。  私は1995年に本学に入学しました。当時は、全国的に大学受験者数が多く、沖縄県も同じでした。当時予備校に通っていて、英語を集中的に勉強していました。国語は比較的得意でしたので、国 […]

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本学に進学した理由をお聞かせください。

 私は1995年に本学に入学しました。当時は、全国的に大学受験者数が多く、沖縄県も同じでした。当時予備校に通っていて、英語を集中的に勉強していました。国語は比較的得意でしたので、国語と英語、そして経済学を学べるところを探した結果、本学の商経学部 経済学科(現:経済学部 経済学科)を選びました。

 

 

経済学科を選んだ理由はなんですか?

 受験時に、経済学を学びたい!と深く考えていたわけではありません(笑)。ただ、経済は私たちの日常生活すべてに関わってくると思っていましたので、それを専門的に学ぶことで、将来の仕事に就くときに必ず知識が活かされるだろう、という感じで経済学科を選びました。

 

 

大学に入って経済学を専門的に学ぶわけですが、高校生の時と実際学んでみて、どうでしたか?

 難しかった(笑)。私が不勉強だったのが悪いのですが、在学中の4年間、とにかく難しかったという記憶しか残っていません(笑)。当時は、授業を受けても経済理論が難解すぎて全く消化できていなかったですね。

4年間難しいと感じていた経済学ですが、卒業後、大学院で研究する道を選ばれました。
経済学をより深めて考えようと思ったきっかけなどを教えてください。

 卒業論文です。

 4年生になって卒業論文を執筆することになり、初めて自分から様々な文献や先行研究を読み始めました。主体的に卒論に取り組むうちに、それまで問題意識がなかなか持てなかった経済社会の問題や沖縄の課題などが理解できるようになり、それがきっかけで、学ぶことが「難しい」から「面白い」に変わり始めました。主体的に取り組み始めたのが大きかったということでしょうね。

 本学に地域産業研究科が出来たのがちょうどその時です。経済を学ぶことが楽しくなっていましたし、せっかく本学に経済を研究できる大学院が出来たので進学しようと思いました。

 

 

大学院に進学されて、経済学を「学ぶ」から「研究する」ということに変わったわけですが、大学院はどうだったでしょうか?

 学部以上に難しかった(笑)

 大学院に行くと、さまざまな経済データを用いて分析することになります。どちらかというと、学部時代はデータを扱う講義を避けていましたので、大学院でそれを学ばないといけないのが大変でした。大学院では、経済現象を定量的に分析する方法を指導教員(廣瀬牧人教授)に教えてもらい、そこでデータ分析の面白さに気付くことができました。

 大学院で研究していく中で、将来研究者として生計を立てたいと思うようになり、明治大学大学院博士課程に進学しました。当時、明治大学には私の学部時代の指導教員(現産業情報学科、前村昌健教授)の恩師がいらっしゃいましたので、前村先生のご紹介で私も明治大学で研究を深めていきました。

 

 

博士課程修了後から本学に着任されるまでのお話しを聞かせください。

 都内シンクタンク勤務や大学での非常勤講師を経て、山梨県にある市立大月短期大学に専任教員として採用されました。大月短期大学は、全国各地から学生が集まっていまして、そこで出会った学生に刺激をうけていましたね。

 ただ、その当時から将来的には沖縄に戻って大学教員をやりたいなという思いがありました。縁あって2014年に母校である本学経済学科に採用されましたが、いま振り返ってみると、進学や就職、本学での採用など、その時々のタイミングで本当に多くの方々に支えられて今があるなと感じています。

研究者になってよかったことをお聞かせください。

 まず、教育に関わることができるのが一番です。学生に教えることも楽しいですし、議論することも楽しい。また、学生の考えを聞いていると、新たな気づきや発見もあり、私自身も成長させられます。

 

 

県外での大学勤務を経て本学(母校)の教壇に立つことの想いを聞かせてください。

 母校で勤務し、後輩(学生)と関われるのは嬉しいですし、なにより本学の卒業生が社会人として活躍している姿をみると、母校で人材育成に携われて本当によかったなと感じます。

 また、私は経済学が難しいと思って大学生活を過ごしてきたので、後輩たちを見ていると、授業中どこでつまずいているのかを感じ取ることができます。これは私が勉強をしてこなかった故にわかることです(笑)。そして大学時代に勉強でつまずいたからこそ、私が担当する授業では、説明の仕方を工夫して学生がより理解できるように努めています。

 

 

最後に、後輩(学生)へメッセージを

 4年間という大学生活は後にも先にも今しかありません。海外留学をするのも良いし、アルバイトやサークル活動に励むのも良いし、お金を貯めて旅に出るのも良い。大学内外で多くの人と出会い、いろいろな経験をして、自身の視野と可能性を広げてください!

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